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    ホイアンの日本人街はどこにあったか?

    日本橋の西側にあったとみられる日本人街

    中部ベトナムの港町であるホイアンは、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、東アジアと東南アジアを結ぶ国際貿易港として急速に発展しました。この時期、日本からは朱印船が頻繁に往来し、多くの日本人商人が長期滞在、あるいは定住していたことが、日越双方の史料から確認されています。



    当時のホイアンには、日本人、中国人、ベトナム人、さらにはヨーロッパ人も居住しており、民族ごとに緩やかな居住エリアの分かれ方がありました。日本人街については、明確な町名や区画名が残っているわけではありませんが、現存する日本橋(来遠橋)がキーとなります。



    この橋は、日本人によって建立されたと伝えられており、日本人居住区と中国人居住区を結ぶ境界的な役割を担っていました。現在橋の東側はもっとも賑やかな地区ですが、ここには旧家が多く残っていて、そのいずれもが華僑の住居であったことから、日本人街は橋の西側、あるいはその周辺一帯に広がっていたと考えられています。



    日本人墓地が語る定住の歴史

    現在日本橋の西側は比較的静かで、アートギャラリーや土産店が軒を連ねますが、ここに日本人街があったという証拠に日本人の墓の存在があります。現在、ホイアン旧市街から北東方向に位置するアンバン海岸周辺には、日本人墓地とされる場所が伝えられています。



    これらの墓は、墓碑の様式や周辺の歴史的状況から、1600年前後から1630年代頃、すなわち朱印船貿易が最盛期を迎えていた江戸時代初期のものと見られています。異国の地で亡くなり、帰国できなかった日本人が現地に埋葬された事実は、日本人が一時的な滞在者ではなく、生活の拠点としてホイアンに根を下ろしていたことを示しています。



    鎖国による日本人の減少

    17世紀半ば、日本の鎖国政策が本格化すると、日本人は次第に帰国し、日本人街は短期間で姿を消したと考えられています。華僑が土着化してそのまま根を張ったのに対し、日本人はその子孫とされる人々がいないことから、多くの商人は帰国してしまったのかもしれません。

    その後、建物や町並みは中国系住民や現地住民によって引き継がれ、現在見るホイアン旧市街の景観が形作られていきます。日本人街そのものは痕跡としては残っていませんが、来遠橋と日本人墓地という2つの要素が、日本人街の存在を現在にまで伝えています。



    ホイアンの日本人街は、地図上で明確に示せる場所というよりも、港町の中に確かに存在した日本人の生活圏として、歴史の中に位置づけられるものです。旧市街とその周辺を歩くことで、日本とホイアンが深く結びついていた時代の空気を、今も感じ取ることができます。


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